長野旅行

提督業こなしたあと、酒かっくらって寝てしまったので、睡眠時間が取れて疲れもない。元気に朝食食ってから出発しようとしたら、チェックアウトの時にコシヒカリ1kgプレゼントされた。なんか安いプランだったので申し訳ない気分。部屋も綺麗だったし、ユートピアお勧めだぜ。(熱い風呂が大丈夫な人は)

さて今日は長野探訪の予定で、まずは北志賀方面へ。

途中なかなかアイロニックな風景があったので撮影。

廃ガソリンスタンドで薪を貯蔵しているという画。上手い人が撮れば意識高い写真が出来そうだけど、繰り返すがそういう才能は私にはない。

ということで2時間ほどで目的地到着。

小丸山スキー場、下に見える赤い屋根の建物が北志賀グランドホテル。人生の中でスキーは一回しか行ったことのない私がなぜここに来たかというと、このスキー場の中腹にあるこの建物を見たかったから。

ビレッジ喜楽。大学の2年と3年の軽音楽部の夏合宿地。下の北志賀グランドホテルも夏期は音楽合宿場やってるんだけど、大きな練習場と宿泊部屋というスタイルだったので、オケとか吹奏楽向きだった&ちょっと当時は料金が高かったのもあって、使ったことがない。

なんせ当時は人数、バンド数が多いので(ざっくり10バンド以上)機材は4トン車に積んで、観光バス2台での移動だった。なので少し大きめの部屋が多くあって、そこにドラムとかを持ち込んでも良い合宿地を探す必要があったわけだな。

そこで当時出来たばかりのこのロッジが条件が良かったことと、10日間続く合宿を2年連続でやったここは、個人的に思い出深い場所なんだよ。

実を言うとこの建物か当時のものかは定かではない。建物だけを撮った写真なんか残ってない。(昔は写真なんかそんなに撮らないし)しかも40年以上前なので、当然増改築もされていてるだろう。

また10月と夏でもなく冬でもない中途半端な時期で、建物には誰もいなかったため、話を聞くこともできなかったんだけど、一応冬場はホテルとして営業はしているみたいだ。

しばらく風景を楽しんだあと出発。

ああ、ここ絶対通る場所だ。(その後他の大学の合宿も遊びに行ったりしたので、この道は懐かしいのである。)

こういうアイコニックな建物が閉鎖されているのは悲しい。

確か土産物屋みたいな所だったはず。

次なる目的地は聖高原

ここは1年の時の合宿地で、当然のようにもう閉鎖されているし、何なら半分廃墟化している。

そして、こちらもよく覚えていないんだけど、おそらくこの場所だっただろうという感じ。同年代や先輩に聞いてもあまりはっきり覚えている人いないんだよなあ…。

こちらは訳も分からないうちに突入した1年次の合宿で、あまり楽しかった覚えはないので写真だけ撮ってすぐ退散しようかと思ったんだけど、そういえばここ聖博物館があるんだったなと気づいて見学。

こんな感じで野ざらし自衛隊機4機と、

デゴイチが展示してあって、時間内であればこの場所は無料で開放されている。

そしてなぜか陸奥の主砲が展示されていたりもする。

爆発事故で柱島で沈んでいるため、戦後全体の75%が引き上げられた。そのためか、いくつかの場所で陸奥の砲塔が展示されている。神奈川県のヴェルニー公園、岡山の日植記念館(一部)、広島のヤマトミュージアムなど。江田島には砲塔ごと残っているけど、あれは引き上げられたものではなくて交換されたもの。

あと戦後の溶鉱炉は状態を調べるために放射性物質が仕込まれているんだけど、この引き上げられて鉄くずにされた陸奥の鉄は戦前製のため、放射性物質が含まれていないので「陸奥鉄」という名前で今も貴重品となっている。

しかし写真だとこんなんだけど

間近で見るとデカいよな。

艦これなら10.90.90.30で開発できる九一式徹甲弾もリアルだとこんなにデカいし。

この1トンの塊を最大38km飛ばすんだから凄いよな。

館内は有料で300円、村営だけれどボランティアの人がスタッフやっているっぽくて、長年の展示で痛んだ自衛隊機の補修や、展示エリアの階層などを行っている最中だそう。

改装中という事と、元々方向性の定まってない博物館なため、外だけでも充分かなという気はする。

奥の航空博物館には、ジェットエンジン陸奥の引き上げ品の展示

本館は1階が木彫りの羅漢像など、2階が郷土史館で善光寺街道の面影を伝えている。

そういえばここ麻績村というんだけど、ずっと「あずみむら」だと思っていた。「おみむら」って読むんだな。

一時間ほど堪能した後に次の目的地へ。

松代象山の地下壕跡、大戦末期に政府機関の移転を目的として掘られたもので、碁盤の目のように掘られていて、少し離れた場所には天皇陛下の御所も準備されていた。

結局は本土決戦が行われなかったこともあって、戦後は放置されていたんだけど平成時代に整備されて一部が公開されている。

安全のため鉄骨で補強してあり、壕の500m位を見学することが出来るんだが…

正直ずっとこの景色のままだし、最終地点にあるクライマックスがこれ。

なのであまりお勧めできないスポットだな。足場がいいわけでもないところを1km歩くのは結構大変だわ。 

保全との兼ね合いもあるだろうけど、外にある案内板を小分けにして壕の中に入れるとか、中に作られていた家屋を一部再現するとか、マネキンとかトロッコ置いて掘削の様子を見せるとか、施設としてやってもいいんじゃないかなと思う。

隣に「もう一つの歴史館・松代」という建物があったので、近づいていくと、スタッフが「説明しますよー」とのこと。なるほど、あの展示だとイマイチよく分からないので、補助的な感じの資料館なのかと思って200円を払って中に。

…あ、これ私と一番相性の悪いやつや。

要は「朝鮮人カハイサウ」メインの展示と説明。大人なのでにこやかに聞いていたんだけど、よく分からなかったのが「コーリャン」の説明。労働者への(不味い)食事として使われたってことだったので、「この辺で栽培されていたんですか?」と聞くと、「いや輸入していた」という答え。

日本海でもバンバン潜水艦に輸送船が沈められていた時期に、わざわざ栄養価が低くて不味いモロコシを輸入?

長野県は関東の児童疎開先として最も多くの3.7万人を受け入れているし、その時に食費として10円が徴収されているから、食料はあったのは明白だ。松代を含めて長野市が空襲を始めて受けたのは終戦の二日前だから、工事の時期に食料は充分とは言えずとも不足なくあったわけで、貴重な資源を使って、わざわざ危険な朝鮮から輸入するとはとても考えられないんだけど…。

おそらくエピソードにあった「終戦後に貯蔵庫を見たら、大量の米が備蓄されていた、一部分は腐っていた。あれが配布されていれば、労働者の食事は…」を強調するための演出なんだろうと思う。それに「いや、そりゃ天皇が来る所なんだから余るくらいの米の備蓄あるだろ?」としか思わないんだけど。

ということで壕を後にして、近くの神社や山寺常山邸を冷やかして、ラストの訪問地へ向かう。

ところで実は松代を松本だと勘違いしていて、北志賀と聖高原の中間地点に松代があるにもかかわらず、先に聖高原に行ったため無駄に往復することになって、ガス代と高速代と時間を無駄にしてしまった。高速であれ?ここさっき通ったぞと気づいて判明したw

そして東塩尻信号場に到着。

鉄分濃い人々にはメジャーなスポットなんだけど、(おそらくJRが)管理しているためか、重要部分の草は刈られていて、絶妙にいい感じの廃線跡として残っている。

今は中央本線は岡谷からトンネル経由でみどり湖に抜けて塩尻に行くルートだけれど、昔は辰野から山越えをしていた。

その時代に輸送力増加のため(待避線として)スイッチバックで作られたのがこの東塩尻信号場で、客扱いもあったので短いプラットホームも残されているわけだ。

とはいっても、本数が少ないとは言え一応現役の線路の近くなので、立ち入りは限りなくアウトに近いアウトだと思う。

でもなかなか面白いところだよな。

3日間の観光を終え、あとは帰るだけなんだけど、もう一つ目的地が残っている。

「駅前の歩き方」という個人的に大好きな漫画があるんだけど、各地の食べ物を題材にしたエピソード集で、「ババヘラアイス」の話は読むたびに泣いてしまう。

その中にずっと食べたいなと思っていたものがあったので、〆に行ってみよう。

ということで、萬楽のローメンと餃子!

スープで蒸した焼きそばみたいな感じのもの。羊肉とキャベツが具で、ニンニクやらソースやら醤油やら酢やらで好きな味にして喰う。

…うん?…微妙じゃね?

普通に旨いんだけどわざわざ食いに来るほどのものではなかった。これも新潟のイタリアンと一緒で、ヨソ者がいきなり食べて旨いと感動するようなものじゃないみたいだ。あんかけスパみたいなもんだろうな。

なんか消化不良だったので、腹ごなしに下道1時間ほどかけて4月に訪問した「さつまラーメン阿島店」でリベンジ。

今回はタイトル通りのさつまラーメン500円。こういうのでいいんだよ。

その後ぷらぷらと下道で帰っていたんだけど、流石に疲れてきたので恵那から高速に乗って22時半頃帰宅。

いつものことながら詰め込みすぎの3日間でした。