研究発表w 長文注意

先月いつものようにググマで、バーチャル廃墟巡りをしていたら、近場のスポットを発見。ところが同時にこの場所心霊スポットでもあったんだな。

まあ廃墟≒心霊スポットみたいなモノなので、あまり気にしていなかったんだが、その元となる事故のことを色々調べているうちに、Fラン大学の研究発表ぐらいの量になったので、ここにまとめておいた。もちろん全て伝聞なのだが、書き方としては知った風に書いておく。あと鉄分は濃ゆいが、鉄ちゃんではないので、細かいところは間違ってるかもしれない。

 

さて今からのお話は青山トンネル事故の話。時をさかのぼること44年前、大阪万博の終わった翌年1971年に起こった近鉄の事故のお話だ。場所は三重県津市と伊賀市の境あたりで、営業的に大阪難波近鉄名古屋の中間の位置にある。今でも同時刻に発車した特急は新青山トンネルですれ違う。

当時の青山トンネルは、参宮急行電鉄が戦争前の1930年に作ったもの。大林組百年史の中にも出てくる大工事だった。延長3.4㎞は当時の私鉄最長。


参宮急行電鉄青山隧道 (大林組ウェブページより)クリック拡大

この写真は西側から撮られているので、映っている駅は旧西青山駅。一番左の標識をよく見ると「まやおあしに」と読める。

ちなみに大林組は大正時代に、参宮急行電鉄の親会社の大阪電気軌道の生駒トンネルを受注して、工事代金未払いが続いたため倒産しかけている。(その後実業家の片岡直輝がどちらもまとめて再建)

トンネルは単線で、1967年にトンネルの東西が複線化されてからもこれをずっと使用していた。運行のボトルネックになっていたので複線化計画はあったものの、この区間は急勾配の山林で難工事が予想されたため、トンネルの東西まで複線化されていた当時でも、だましだまし使っていた状態。当時の近鉄のダイヤはこの青山トンネル近辺の列車交換スケジュールを最初に決めてから作っていた。

またトンネルの中も33‰を越える急勾配で、日本での普通の鉄道の限界35‰ぎりぎり。‰(パーミル)は千分率で、1kmで35mの勾配が35‰ なので登り(大阪方面へ向かう方)はスピードも出せないし、下りはトンネル出た後カーブが曲がれないので、これまたスピードが出せないという難所。

さてググマでこの辺りが現場。実は現在殆どが新線に置き換わっていて、事故当時の旧線はこれまた廃線マニア垂涎のエリアとなっている。現在の西青山より西にも旧線は残っているんだけど、地図は現場となった旧青山トンネル。

白い線の新青山トンネルと、黄色い線の165号線の間にうっすら見える右上がりに抜ける直線が旧青山トンネルの位置。

ちなみになぜ航空写真なのにトンネルの位置が分かるようなラインがあるのかというと、昔のトンネルは技術的に高圧線や通信線をトンネル内に通して保守するのが難しく(蒸気機関車の時代だし)、高圧線などは山を切り開いて、トンネルの上に通していた。なので、85年経った今でもトンネルの真上は切り開かれた状態になっているのだな。

そして右端の方を拡大したのがここ

ここが旧東青山駅。まだプラットホームが残っている。その当時は海以上に山がレジャースポットとして人気だったので、この駅も青山高原のハイキング道の入り口としてそれなりに賑わっていた。

さて事故当日の1971年10月25日、3時半頃に上本町(うえほんまち)発、近鉄名古屋行きの特急電車、(といってもいわゆる「乙特急」と呼ばれる、大和八木とか桑名みたいな細かい駅にぽちぽち停まる急行みたいなやつ)が青山トンネルに進入する。車輌は当時最新鋭の12200系の4両編成。(スナックカーとか言い出すとまた横道に逸れるので置いておく)


12200系 写真はTSUBAMEさんの からお借りしました。

この写真は伊勢中川付近で撮られている名古屋行きなので、事故がなければ約20分後にこんな感じで名古屋へ向かう筈だった。

この列車が旧東青山駅の手前のトンネル内でATS(自動列車停止装置)の故障により強制停車させられてしまう。今ではほとんどないんだが、当時はATSがこなれていなくて結構な頻度でATSの故障があった。当時子供だった私もそういうニュースがよくあったのは覚えている。当日もそれまでに上下6本の列車が緊急停止していて、技師が故障原因を調査していたところだった。

(上図は、書籍・徳田耕一『近鉄廃線を歩く』の写真と、YASUBEE's鉄道写真ギャラリーの記事、近鉄の路線風景の写真、その他廃線探訪のウェブページなどを参考に作成しました。)

運転士は運転席でATSの解除を試みたが解除できず、車掌に異常を知らせた後、運転席から降りて直接ブレーキの部分を点検する。下り坂の途中だったので1両目(2両目とするサイトも有り)にハンドスコッチと呼ばれる車止めをはさみ、個々のブレーキのエアを抜く。これでブレーキは解除状態になった。資料によってはここで運転士がエアを抜いたのが大きな間違いとするものもあれば、wikiによればこの行動は一般的な手順に従ってのことで、運転士に非はないとの記述もある。

その後旧東青山駅から助役がやってきて運転士とのやりとりの後、運転士は運転席に戻る。ここでなぜか助役は車止めを外してしまったので、列車はゆっくりと動き出し、旧東青山駅を通過しだす。この辺りは助役と運転士どちらも事故で死亡しているため詳しくは分かっていない。(停車時間は5分~10分と諸説ある)

運転士はブレーキをかけようにもエアを抜いた状態で走っているのでメインブレーキはきかない。ATSが正常に動作したとしても、そもそもブレーキがきかないのだから停めようがない。残る電気ブレーキは減速用、手動ブレーキは走り出した列車には効かない。

東青山駅構内は、もともと通過予定だったわけだからポイントも信号もどうぞどうぞ状態。脱線ポイントが用意されていたけど、助役がおそらく巻き込まれてこの時点で動けなくなっているので、(列車に乗っていた説も有り)操作出来る人もおらずそのまま次の滝谷トンネルに突入。(助役以上の人は駅にはいなかった模様)

最初に停止していた場所が10‰、構内は3‰の傾斜なので、この時点ではまだそれほどスピードは出ていなかったはずだけど、トンネルで勾配が再び33‰となり、列車は更に加速する。

車輌内では打つ手がないので、乗客は最後尾の車輌に移動させられる。滝谷・溝口・仁川と3つのトンネルを抜けて出た先が垣内(かいと)信号所。ここは安全側線という方式になっていた。(旧青山駅も一応そうだけど)

トンネル同士は直結されておらず、直進で行き止まりになっていて、車止めや盛り土、傾斜路などで強制的に列車を停める仕組み。通常はポイントの信号が赤ならば停止し、黄色でポイントを通過することなっている。

予定ではここで対向してくる特急列車とすれ違うため、垣内信号所のポイントは安全側線側、信号は赤。本来は信号の所で停まる予定だが、ブレーキが効かないので、信号無視をしてそのまま車止めに突っ込んで停まるはずだった。

おそらく死者やけが人は出るだろうが、ブレーキがきかない以上これが最善策。運転士もそう考えて客を最後尾車輌に移動させたのだろう。(運転席から離れなかった運転士には頭が下がる)

ところが運悪く、垣内信号所を抜けて次の旧総谷トンネルに入るところが今までにない急な左カーブになっていて、しかもこの時点で加速を続けて100km/h以上のスピードでにまでなっていた。

そして120km/hのスピードでカーブに突入し、安全線側を乗り越えて脱線してしまい、反対側の線路にはみ出す形で進行を続けてしまう。

その後一両目二両目は横転し、一両目はトンネル内に侵入後停止し、二両目はトンネルに突っ込んだ後くの字に折れる。三両目四両目はトンネルの入り口右側に激突して停止するという結果に。

トンネル内で横倒しになった一両目(伊勢新聞より)

2両目と、側壁に衝突した3両目(伊勢新聞より)

 

さらにそこに反対方向から上本町行きの7両編成の特急列車が到着してしまう。運転士はトンネル内で異常に気づき、急ブレーキをかけるものの間に合わず、時速数十kmで正面衝突してしまう。(トンネル内制限速度は65km/h)

この特急列車はもともと垣内信号所で、事故を起こした特急列車とすれ違う予定だったので、信号所までの信号は全て進行のままだった。

脱線した特急列車も動き出してからはずっとトンネル内だったので、無線なども繋がりにくかったのだろうと思われるし、加速するだけの車輌を何とかコントロールする中、乗客を最後尾車輌に移動させていたとすると、そもそも10分程度の時間で連絡すら難しかったのかもしれない。

伊勢新聞によると、本来下りの列車が垣内信号所を通過するのが3時42分10秒 上りは3時41分10秒と、1分の余裕しかない。上り下りの遅れが大きく影響する中間地点で、元々無理なダイヤだったことは確かなようだ。遅れをの帳尻合わせや、通過の順序変更など恣意的運用がされていたことも想像に難くない。しかも当日事故列車は下り7分・上り2分の遅れが出ていたという。

事故後懸命の救出作業が行われるが、山奥のため窓を割り中に入った救助隊員が動けなくなっている死傷者を運び出すという地道な作業になってしまう。翌朝になってから雨の中、ガスバーナーで車輌を切り開きながらさらに救助活動が進められた。消火器がないので、バーナーが座席などを燃やすとバケツで消火しながらの作業となったが、翌日中には確認された遺体は全て収容された。

遺体収容後直ちに復旧作業が行われ、下り列車の最後尾4両目は名張駅へ、上り列車は先頭車両を残し6両が明星駅に移動、(先頭車両も後日移送)残った123両目の車輌は四分割されブルドーザーなどで撤去となった。

不幸中の幸いを挙げるとすれば、下り列車の乗員はほとんど最後尾の4両目に集められていたため、車輌の変形もなくすぐに救出できたことと、上り列車の最後尾2両に学会に出席予定だった医師が多数乗車していて、素早く応急処置が出来たことだろう。

しかしながら結果、死者乗務員3名を合わせて25名、負傷者255名という鉄道史に残る大事故となってしまう。

この事故を受けて近鉄は複線化計画を前倒しし、まず東側の総谷トンネルと梶ヶ谷トンネルと平行して、新たに複線の新総谷トンネル・新梶ヶ谷トンネルを開通させ垣内信号所までを複線化。新東青山駅を作った。

その後元々旧線は地滑りの多い区間だったこともあり、新青山駅から峠越えをしない直進ルートの新青山トンネルを1975年に開通させる。全長5,652mは大手私鉄では未だに最長のトンネル。トンネル内は急勾配ではあるものの一直線で、新青山変電所の所で緩くカーブを描いてまた一直線という構造になっている。

これにより近鉄大阪線は全線複線化が完了し、輸送力増強・所要時間の短縮・運転保安度が改善された。

 

…ってということで自由研究終わりw なぜ三重県立図書館まで行って調べる情熱があったのかは不明。もともと廃墟好きだし、割と近くでもあるので、もう少し暖かくなったら廃線後を訪ねてみようと思っている。

ただ今ゆるく参加者募集中w

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