断末魔の叫び

差別表現 ブロガーも問われる責任と人権感覚という記事。

久しぶりにお花畑全開の記事で、ある意味爽やか。「ブログの発展が一番恐い。」って個人の愚痴を読みたくなければ見たくなければいいし、書き込まれるのがイヤだったらコメント欄閉じればいいだけ。炎上するブログにはワケがあるし、火事場にDQNが集まるのもリアルな世界と一緒。

出版やテレビ業界は、差別表現について、1960年代から人権団体の激しい糾弾を受けてきた。人権団体が番組や記事、広告などで差別表現を見つけると、責任者を呼んで糾弾会を開き、根底にある差別意識を厳しく問いただす。場合によっては謝罪広告を出したり、書籍や雑誌の場合は絶版になるなど、経営的にも痛手を受けることになる。

糾弾の経験を経て学習したマスメディアでは、自主規制が進んだ。堀田さんが小学館在籍当時にいた部署も、自主規制の最前線。差別表現に関するレクチャーを開いたり、編集者からの差別表現に関する問い合わせに対応し、「なぜその言葉がダメなのか」を、納得するまで説明していたという。

これをやっちゃったから、サベツは怖いから関わらないようにしようっていう差別が生まれ、なんでも声が大きい方が勝ちという今のモラルハザードにつながっているんだろ。むしろその過去を恥じるべきだと思うが…

人権団体は最近、ネットを注視しているという。

朝鮮民主主義人民共和国の「民主主義」と一緒のロジックでね、人権団体という団体が一番人権をないがしろにしているの。うかつな発言があったにせよ、糾弾会まで開かれた方の人権や心の傷はどうなる?

――小学館で差別表現問題に取り組み

自分ところで起きている問題を何とかしてから他人に説教しろよと思う。預金残高が一万円切った漫画家は弱者じゃないのか?